2011年05月

2011年05月17日06:07顔グラ総覧(三國志)-第3回 孫権
孫権    仲謀 (182~252)




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三國志Ⅱ三國志Ⅲ三國志Ⅳ三國志Ⅴ三國志Ⅵ三國志Ⅶ
★★★★★★★★★
★★★
★★★
★★★
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孫権
三國志Ⅷ三國志Ⅸ三國志Ⅹ三國志11三国鼎立2
★★★★★★★
★★★
★★★★
★★★★



孫権は江州一体を制覇した兄の孫策が急死するとわずか19歳の年齢で後を継いだ。
その際兄の孫策は孫権に「天下の覇権を他の群雄と争う点ではお前は俺には到底及ばないが、
賢者を用い人材を活用する点においてはお前は俺よりも優れてる」と言い残したという。
孫権は孫策亡き後の家臣団を周瑜と共に纏め上げ、曹操が南下し江州を襲う気配を見せると、講和を主張する文臣たちの意見を避けて周瑜と魯粛らの主張を取り入れ
剣で机の角を切り落とし開戦の決意を示した。
劉備や諸葛亮らと結託した孫権は赤壁において曹操軍を苦肉の策をまじえた火計で破り大勝する。
しかし劉備が戦後に荊州を奪うと、その所有を巡って対立。盟約を裏切って曹操の子・
曹丕に通じて呉王に任じられ、荊州を守る関羽を攻めて、これを殺す。
憤った劉備が攻めてくると
陸遜を用いて夷陵で火計をもってこれを破った。
229年には呉帝を称し、これによって大陸には3つもの皇帝が生まれることになった。
しかし若いときは名君として称えられた孫権であるが、老いを過ぎるとかつての鋭才を欠き、佞臣を重んじ
孫和と孫覇の後継者争いを勃発した挙句両者とも粛清し、顧雍や陸遜を始めとする多くの家臣を粛清した。
これによって呉は内分裂化して急速に衰退し、衰えていく呉を見ながら252年に没した。



孫権の顔グラのイメージはほぼ固定化しており被り物に長い
と劉備、曹操らと比べてもその変化は乏しい。
碧い眼に赤髯の容貌であったと言い、顔グラを見るとなんとなくそんな感じか……?といったところだ。
そんな中目立っているのがⅣの孫権で口元に笑みを浮かべて遠くを見つめている。なにかやましいことを考えている悪人の面だ。こんな人間が呉の皇帝をやっていたら諫言する張昭も相当苦労したに違いない。
その後また穏やかな表情の皇帝に戻ったが、Ⅶの孫権は何処か物寂しげな表情だ。
歳をとり、白髪も増えて目にもはっきりと生気が無くなっている。きっと晩年の錯乱した孫権はこんな表情だったのだろう。
11年では若年期の顔グラが登場して新鮮だ。三国鼎立2ではそれよりもまだまだ若いいかにもひよっこって感じの顔をしている。
キリっとした眉からは意志の強さが感じられるが、剛直な性格で張
昭と言い争った挙句、家にも放火してしまうほどだ。
これくらいの横柄さを醸し出していたのかもしれない。





2011年05月15日16:36顔グラ総覧(三國志)-第2回 曹操
曹操    孟徳 (155~220)




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三國志Ⅱ三國志Ⅲ三國志Ⅳ三國志Ⅴ 三國志Ⅵ 三國志Ⅶ
★★★★★★★★★
★★

★★★★★
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曹操
三國志Ⅷ三國志Ⅸ三國志Ⅹ三國志11 三国鼎立2
★★★★

★★★★
★★★★★
★★★★★



曹操といえば劉備と共に物語序盤から中盤までの主役の一人と言っても過言ではない。
許劭に「治世の能臣、乱世の奸雄」と評された彼は、乱世において持ち前の天賦の才覇道を突き進んでいくことになる。
黄巾討伐の軍に参加した曹操は董卓の専横が始まると
袁紹を盟主に反董卓連合を結成させ、これに対抗する。
大陸が群雄割拠に陥ると呂布、
李傕、袁術、劉備らを破り献帝を擁して中原を平定。一大勢力を築き上げる。
更に対立した河北の雄・
袁紹を官渡の戦いで破ると大陸の北半分を領し大陸の統一に近づく。
しかし孫権・劉備連合軍に赤壁の戦いで敗れると大陸の統一を目前にして頓挫。
その後は
魏王の位に即き、名実ともに位人臣をきわめ、魏建国の基盤を作った。後に武帝と追尊された。


曹操では三国志演義では劉備と相反する負の方向の人物として描かれ、専横、暗殺、略奪と暴虐の限りを尽くし、そのため大陸では今もなお悪人の代名詞として認知されている。
しかし実際は
建安の三曹七子に数えられるほど文人で、教養高い人物であった。
また大陸を統一の一歩手前まで漕ぎ着けたあたりからして、並大抵の人物ではないのは間違いないだろう。

顔グラの方であるが、演義の悪人のイメージがやはり先行しているのだろうかⅡからⅥまで、まるで映画の悪役に出てきそうなほどムスっとした顔立ちで悪人相である。一応Ⅴまでは
位人臣を極めたらしい身なりをしていたがⅥまでは一転して盗賊の身なりのようである。これでは大帝国・魏建国の足がかりを作った面影はどこにもない。
ⅦとⅧでは立派な軍装に身を包んでいる。まだ大陸で戦場を駆け巡り領土の拡張に躍起になっていた頃であろうか。
Ⅷではまた軍装をはずし平伏姿に戻っている。この頃になると大陸の領土をほぼ手中にし、自ら戦場に打って出る機会もなくなったのだろう。
だがⅨの曹操は頂けない。ドヤ顔に長いラーメンマンみたいなひげ面をしてまるで拳法の達人とでも言った方が良さそうだ。




2011年05月14日16:16顔グラ総覧(三國志)-第1回 劉備
劉備    玄徳 (161~223)



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三國志Ⅱ三國志Ⅲ國志Ⅳ三國志Ⅴ三國志Ⅵ三國志Ⅶ
★★★★★★★★★
★★★★★
★★
★★
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劉備
三國志Ⅷ三國志Ⅸ三國志10三國志11三国鼎立2

★★
★★★
★★★
★★


劉備といえば三国志の主役の一人である。一介の筵(むしろ)売りであった彼は関羽、張飛と共に黄巾討伐の軍に挙兵。
その後曹操の専横が激しくなるとこれに反発するも敗れ、劉表の所に逃れ諸葛亮を軍師に向かい入れ曹操と戦う。しかし劉備を慕う10万もの民衆を匿ったため曹操に敗北。その後呉の孫権・周瑜と結託し赤壁で曹操を撃破。益州の劉璋を破りここに本拠地を置き、曹操の魏、孫権の呉、そして劉備の蜀と見事天下三分の計を実現させる。
しかし盟約を裏切って義弟・関羽を殺した孫権に憤った劉備は周囲の制止を振り切り大軍を持って夷陵にて呉の陸遜と対峙。しかし火計をもってこれを壊滅させられ、更に義弟の張飛にも先立たれ、子・劉禅を諸葛亮に託して失意のうちに病死した。蜀の昭列帝。




三国志演義では劉備は荒廃した国を憂え、民衆を想い、義理に厚く、またかえって優柔不断な一面を見せる物語の主人公として描かれている。しかし正史ではうってかわって劉備は乱世を生き残るため幾度かの裏切りを繰り返し(曹操から離反、劉璋を併合)大陸に領土を手に入れた、むしろ野心家として描かれている。

顔グラの方だが、三國志Ⅱの山賊っぽい身なりはさておき、それ以降は蜀の皇帝らしく堂々たる風格を持った人物として描かれている。やはり群雄割拠の大陸を生き残るためにはこれくらいの風格を有していたのだろう。
しかしⅦとⅧではイメチェンをして、かつての威厳はどこへやら。へなへなと含み笑いを浮かべた三枚目へと成り下がってしまった。まるでこれでは大陸の群雄というよりは一介の商人である。
まあ何も起こらなければ寂しい筵(むしろ)売りとして一生を過ごしたはずであるからこれもある意味間違いではないのだが……、「オニーサン、ムシロヤスイヨー、ヒトツカッテヨー」なんて台詞が似合いそうだ。
蒼天航路の影響なんだろうか。
10からはまた逞しさが戻り血の気も良くなった。しかし11の晩年ではどこか遠くを見つめて寂しそうだ。
長い間苦楽を共にした義兄弟の関羽、張飛に先立たれ、自分も死期を悟っているのだろうか。白髪もめっきり増えてしまった。
フリーゲームの三国鼎立2では演義の善人のイメージからかけ離れた、ゴツい劉備の顔グラが描かれている。
どちらかというとアラブの富豪とでも言うくらい濃い顔立ちだが、これは正史ベースなのだろうか。
ひげ面にはにかんだ笑みからは今にも含んだ野心が見え隠れしそうだ。まあ実際このゲームの劉備は信義が0なのんで配下としては信用ならないのだが。

呂布に「この大耳野郎!」と罵られた所以だろうか。全体として劉備は福耳が非常に発達している。