2013年07月10日01:03三国志の顔グラシリーズについて
このブログはかなり自分の好きなことに使っています
自己満足的な持論を書いたり、日々の日記を書いたり、アニメについて記事を投稿したり……
でも驚くことにこのブログには三国志の顔グラを求めてやってくる人の割合が最も多いのです
googleで「劉備 顔グラ」や「諸葛亮 顔グラ」などで検索すると
このサイトが上から3番目に出てきます(この記事を投稿時)
そろそろこれ専用の個人ページを作るのもありかもしれませんね
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2011年06月07日18:21顔グラ総覧(三國志)-第4回 諸葛亮
諸葛亮 孔明 (181~234)
三国志の序盤から中盤までの主役を劉備とするなら、中盤以降の主役は諸葛亮と言える。
諸葛亮は陸中で晴耕雨読の生活を送り、司馬微の門下生となり「伏龍」と呼ばれた。
その噂を聞きつけた劉備に「三顧の礼」をもって軍師に誘われ、その際劉備に「天下三分の計」を示した。
諸葛亮は仕官早々卓越した戦術と戦略眼を魅せてその能力に懐疑的的だった劉備の義兄弟である関羽、張飛を心服させる。
劉備が曹操に新野を追われて以降は柴桑に向かい並み居る論客を論破して孫権と周瑜に開戦を決意させる。
諸葛亮ら劉備軍は孫権、周瑜らと結託して戦い、曹操らを赤壁で火計を持って破った。
その際演義だと諸葛亮は十万本以上の矢を集めたり、祈願で東南の風を起こしたりして勝利に貢献してる。
赤壁後は「鳳雛」と呼ばれた龐統を軍師に推薦。その龐統が蜀攻略の途上で戦死すると軍を率いて救援に向かい攻略に大いに貢献する。蜀建国後は丞相として国政を担った。
劉備の死の際はその子・劉禅の後見を託され場合によっては劉禅に代わって後継者になることを劉備に懇願される。
その後も諸葛亮は精力的に活動し、南蛮で孟獲らが反乱を起こすと演義ではこれを七度捕らえて感服させた。
後顧の憂いを絶つと劉禅に「出師の表」を上奏して魏へ北伐を始める。
しかし寵愛してた馬謖が軍律違反を犯して街亭で大敗すると泣いて馬謖を斬った。
その後も精力的に北伐を敢行するがいずれも魏の司馬懿により妨げられた。
五丈原で死期を悟ると姜維に後を託して没する。死してもなお自らも木像で司馬懿を翻弄し、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事を残した。
今でもなお大陸史上最高の軍師として崇められている人物である。
さて今回は諸葛亮である。
諸葛亮といえば孔明の字(あざな)でも知られており、
一般的には劉備や曹操よりもよく知られている人物かもしれない。
その諸葛亮であるが、正史では優れた政治家であり軍略家として描かれているが、
三国志演義の方ではむしろ神算鬼謀の軍師として描かれている。
その活躍ぶりは人の心を読んだり、人の裏をかいて智謀を発揮したり、そして天候を操り
挙句の果てには寿命まで伸ばそうと画策するなど人知を超えた存在となっている。
これはもはや人間というより仙人の域である。
さて顔グラの方であるが諸葛亮のイメージは軍師帽に羽扇と固定化されてるので全体を通して変化には乏しい。
しかしそんな中で一際目を引くのはⅣの顔グラであり、なにやら意味不明なかぼちゃ帽子を被っている。
大陸の神算鬼謀の軍師というよりはモンゴルあたりかの遊牧民みたいな格好だったが、
さすがにこのファッションは周囲からも評判が悪かったのか、すぐに元に戻っている。
その前のⅢでは一際強い眼光を放っているが、この顔グラは諸葛亮というよりは荀彧の方がイメージに近い。
またⅧではイメージチェンジをしてさっぱりひげを剃っている。おそらく若返りを図ったのだろうが
利き手にちゃっかり指輪なんかはめ込んで、これでは軍師というよりロン毛にちゃらいちょっと大人ぶった若者だ。
これもまたやっぱり長い軍師帽に長い髭という軍師のイメージに沿わなかったのか、次作からはまた髭を伸ばし始めている。
こうして諸葛亮は幾度かのマイナーチェンジをしながらも結局また元に戻って原点に落ち着いてる感じだ。
11では壮年の姿の諸葛亮が見れる。死期を悟り、愚考が目立つ主君の劉禅を前に蜀の行き先が不安なのか、いささか目から必死さが伝わってくる。
三国鼎立2の諸葛亮は目が異常にキラキラしててなんだか少女漫画みたいだ。腐女子には受けが良さそうだがこんなキラキラな孔明なんてイヤだ。
「げぇ! 孔明!!」の後にアーッ!な展開が聞こえてきそうだ。
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三國志Ⅱ | 三國志Ⅲ | 三國志Ⅳ | 三國志Ⅴ | 三國志Ⅵ | 三國志Ⅶ |
★★ | ★★ | ★ | ★★ | ★★ | ★★★★ |
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三國志Ⅷ | 三國志Ⅸ | 三國志Ⅹ | 三國志11 | 三国鼎立 |
★★ | ★★★ | ★★★ | ★★★ | ★★ |
三国志の序盤から中盤までの主役を劉備とするなら、中盤以降の主役は諸葛亮と言える。
諸葛亮は陸中で晴耕雨読の生活を送り、司馬微の門下生となり「伏龍」と呼ばれた。
その噂を聞きつけた劉備に「三顧の礼」をもって軍師に誘われ、その際劉備に「天下三分の計」を示した。
諸葛亮は仕官早々卓越した戦術と戦略眼を魅せてその能力に懐疑的的だった劉備の義兄弟である関羽、張飛を心服させる。
劉備が曹操に新野を追われて以降は柴桑に向かい並み居る論客を論破して孫権と周瑜に開戦を決意させる。
諸葛亮ら劉備軍は孫権、周瑜らと結託して戦い、曹操らを赤壁で火計を持って破った。
その際演義だと諸葛亮は十万本以上の矢を集めたり、祈願で東南の風を起こしたりして勝利に貢献してる。
赤壁後は「鳳雛」と呼ばれた龐統を軍師に推薦。その龐統が蜀攻略の途上で戦死すると軍を率いて救援に向かい攻略に大いに貢献する。蜀建国後は丞相として国政を担った。
劉備の死の際はその子・劉禅の後見を託され場合によっては劉禅に代わって後継者になることを劉備に懇願される。
その後も諸葛亮は精力的に活動し、南蛮で孟獲らが反乱を起こすと演義ではこれを七度捕らえて感服させた。
後顧の憂いを絶つと劉禅に「出師の表」を上奏して魏へ北伐を始める。
しかし寵愛してた馬謖が軍律違反を犯して街亭で大敗すると泣いて馬謖を斬った。
その後も精力的に北伐を敢行するがいずれも魏の司馬懿により妨げられた。
五丈原で死期を悟ると姜維に後を託して没する。死してもなお自らも木像で司馬懿を翻弄し、「死せる孔明、生ける仲達を走らす」の故事を残した。
今でもなお大陸史上最高の軍師として崇められている人物である。
さて今回は諸葛亮である。
諸葛亮といえば孔明の字(あざな)でも知られており、
一般的には劉備や曹操よりもよく知られている人物かもしれない。
その諸葛亮であるが、正史では優れた政治家であり軍略家として描かれているが、
三国志演義の方ではむしろ神算鬼謀の軍師として描かれている。
その活躍ぶりは人の心を読んだり、人の裏をかいて智謀を発揮したり、そして天候を操り
挙句の果てには寿命まで伸ばそうと画策するなど人知を超えた存在となっている。
これはもはや人間というより仙人の域である。
さて顔グラの方であるが諸葛亮のイメージは軍師帽に羽扇と固定化されてるので全体を通して変化には乏しい。
しかしそんな中で一際目を引くのはⅣの顔グラであり、なにやら意味不明なかぼちゃ帽子を被っている。
大陸の神算鬼謀の軍師というよりはモンゴルあたりかの遊牧民みたいな格好だったが、
さすがにこのファッションは周囲からも評判が悪かったのか、すぐに元に戻っている。
その前のⅢでは一際強い眼光を放っているが、この顔グラは諸葛亮というよりは荀彧の方がイメージに近い。
またⅧではイメージチェンジをしてさっぱりひげを剃っている。おそらく若返りを図ったのだろうが
利き手にちゃっかり指輪なんかはめ込んで、これでは軍師というよりロン毛にちゃらいちょっと大人ぶった若者だ。
これもまたやっぱり長い軍師帽に長い髭という軍師のイメージに沿わなかったのか、次作からはまた髭を伸ばし始めている。
こうして諸葛亮は幾度かのマイナーチェンジをしながらも結局また元に戻って原点に落ち着いてる感じだ。
11では壮年の姿の諸葛亮が見れる。死期を悟り、愚考が目立つ主君の劉禅を前に蜀の行き先が不安なのか、いささか目から必死さが伝わってくる。
三国鼎立2の諸葛亮は目が異常にキラキラしててなんだか少女漫画みたいだ。腐女子には受けが良さそうだがこんなキラキラな孔明なんてイヤだ。
「げぇ! 孔明!!」の後にアーッ!な展開が聞こえてきそうだ。
2011年05月17日06:07顔グラ総覧(三國志)-第3回 孫権
孫権 仲謀 (182~252)
孫権は江州一体を制覇した兄の孫策が急死するとわずか19歳の年齢で後を継いだ。
その際兄の孫策は孫権に「天下の覇権を他の群雄と争う点ではお前は俺には到底及ばないが、
賢者を用い人材を活用する点においてはお前は俺よりも優れてる」と言い残したという。
孫権は孫策亡き後の家臣団を周瑜と共に纏め上げ、曹操が南下し江州を襲う気配を見せると、講和を主張する文臣たちの意見を避けて周瑜と魯粛らの主張を取り入れ、剣で机の角を切り落とし開戦の決意を示した。
劉備や諸葛亮らと結託した孫権は赤壁において曹操軍を苦肉の策をまじえた火計で破り大勝する。
しかし劉備が戦後に荊州を奪うと、その所有を巡って対立。盟約を裏切って曹操の子・曹丕に通じて呉王に任じられ、荊州を守る関羽を攻めて、これを殺す。
憤った劉備が攻めてくると陸遜を用いて夷陵で火計をもってこれを破った。
229年には呉帝を称し、これによって大陸には3つもの皇帝が生まれることになった。
しかし若いときは名君として称えられた孫権であるが、老いを過ぎるとかつての鋭才を欠き、佞臣を重んじ孫和と孫覇の後継者争いを勃発した挙句両者とも粛清し、顧雍や陸遜を始めとする多くの家臣を粛清した。
これによって呉は内分裂化して急速に衰退し、衰えていく呉を見ながら252年に没した。
孫権の顔グラのイメージはほぼ固定化しており被り物に長い髯と劉備、曹操らと比べてもその変化は乏しい。
碧い眼に赤髯の容貌であったと言い、顔グラを見るとなんとなくそんな感じか……?といったところだ。
そんな中目立っているのがⅣの孫権で口元に笑みを浮かべて遠くを見つめている。なにかやましいことを考えている悪人の面だ。こんな人間が呉の皇帝をやっていたら諫言する張昭も相当苦労したに違いない。
その後また穏やかな表情の皇帝に戻ったが、Ⅶの孫権は何処か物寂しげな表情だ。
歳をとり、白髪も増えて目にもはっきりと生気が無くなっている。きっと晩年の錯乱した孫権はこんな表情だったのだろう。
11年では若年期の顔グラが登場して新鮮だ。三国鼎立2ではそれよりもまだまだ若いいかにもひよっこって感じの顔をしている。
キリっとした眉からは意志の強さが感じられるが、剛直な性格で張昭と言い争った挙句、家にも放火してしまうほどだ。
これくらいの横柄さを醸し出していたのかもしれない。
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三國志Ⅱ | 三國志Ⅲ | 三國志Ⅳ | 三國志Ⅴ | 三國志Ⅵ | 三國志Ⅶ |
★★★ | ★★★★ | ★★ | ★★★ | ★★★ | ★★★ |
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三國志Ⅷ | 三國志Ⅸ | 三國志Ⅹ | 三國志11 | 三国鼎立2 |
★★★★ | ★★★ | ★★★ | ★★★★ | ★★★★ |
孫権は江州一体を制覇した兄の孫策が急死するとわずか19歳の年齢で後を継いだ。
その際兄の孫策は孫権に「天下の覇権を他の群雄と争う点ではお前は俺には到底及ばないが、
賢者を用い人材を活用する点においてはお前は俺よりも優れてる」と言い残したという。
孫権は孫策亡き後の家臣団を周瑜と共に纏め上げ、曹操が南下し江州を襲う気配を見せると、講和を主張する文臣たちの意見を避けて周瑜と魯粛らの主張を取り入れ、剣で机の角を切り落とし開戦の決意を示した。
劉備や諸葛亮らと結託した孫権は赤壁において曹操軍を苦肉の策をまじえた火計で破り大勝する。
しかし劉備が戦後に荊州を奪うと、その所有を巡って対立。盟約を裏切って曹操の子・曹丕に通じて呉王に任じられ、荊州を守る関羽を攻めて、これを殺す。
憤った劉備が攻めてくると陸遜を用いて夷陵で火計をもってこれを破った。
229年には呉帝を称し、これによって大陸には3つもの皇帝が生まれることになった。
しかし若いときは名君として称えられた孫権であるが、老いを過ぎるとかつての鋭才を欠き、佞臣を重んじ孫和と孫覇の後継者争いを勃発した挙句両者とも粛清し、顧雍や陸遜を始めとする多くの家臣を粛清した。
これによって呉は内分裂化して急速に衰退し、衰えていく呉を見ながら252年に没した。
孫権の顔グラのイメージはほぼ固定化しており被り物に長い髯と劉備、曹操らと比べてもその変化は乏しい。
碧い眼に赤髯の容貌であったと言い、顔グラを見るとなんとなくそんな感じか……?といったところだ。
そんな中目立っているのがⅣの孫権で口元に笑みを浮かべて遠くを見つめている。なにかやましいことを考えている悪人の面だ。こんな人間が呉の皇帝をやっていたら諫言する張昭も相当苦労したに違いない。
その後また穏やかな表情の皇帝に戻ったが、Ⅶの孫権は何処か物寂しげな表情だ。
歳をとり、白髪も増えて目にもはっきりと生気が無くなっている。きっと晩年の錯乱した孫権はこんな表情だったのだろう。
11年では若年期の顔グラが登場して新鮮だ。三国鼎立2ではそれよりもまだまだ若いいかにもひよっこって感じの顔をしている。
キリっとした眉からは意志の強さが感じられるが、剛直な性格で張昭と言い争った挙句、家にも放火してしまうほどだ。
これくらいの横柄さを醸し出していたのかもしれない。